全国内航タンカー海運組合の変遷

内航タンカーの歴史と当組合設立までの経緯

内航タンカーの起源

油輸送と“こうれんぼう”

『日本書紀』によれば、天智7年(668)7月、越国(こしのくに)から「燃える土」と「燃える水」が天智天皇の都・近江宮(琵琶湖の大津)へ献上 された、と日本最初の「石油」が記述されている。「燃える土」はアスファルトというのが通説で、「燃える水」は石油のこと。越国は新潟で、旧黒川村(新潟 県胎内市)とされている。現在でも、黒川にはシンクルトン記念公園に日本最古の油田が残り、周囲では天然ガスが湧き出ている。
天然に滲み出した原油は悪臭がすることから「くそうず」と呼ばれ、「臭水」「臭生水」「草生水」などと書かれた。
日本の石油開発は慶長13年(1608)頃、新津で露出した石油を発見したのが始まりで、その後、慶長18年(1613)には蘭引(らんぴき)と呼ばれる簡単な蒸留装置で灯油を作ったという記録がある。
また、江戸時代、新潟では石油の湧出量に応じて農地なみの税金が課せられ、これを「草生水高(くそうずだか)(くそうずだか)」と称していたとも記されている。
液体貨物の内航輸送の歴史は古い。500〜700石の『江戸回船』が大阪〜江戸の海路に初めて就航したのは、大阪夏の陣から4年目の元和5年(1619 年)で、この積荷の中に樽詰めされた照明用や整髪用の植物油があったと記録に残っている。その頃既に、越後地方で石油が採取されていたが、一般に使われる ようになったのは明治になってからである。
文明開化で灯油の輸入が活発になったのにつれて、明治21年頃から越後で石油の掘削・精製が本格化した。産出された石油は、阿賀野川や信濃川を『江連舫(こうれんぼう)』と呼ばれる平底の川舟で、運ばれていた。これが我が国の石油の船輸送のはしりといえよう。
船艙に石油をバラ積みする内航タンカーの第1号は、明治40年(1908)に新潟鉄工所が国油共同販売所(日本石油と宝田石油の共同出資)向けに造った鋼 製のスクナー型帆船『宝国丸』(94総㌧)とされている。既に木製の帆船に鋼製タンクを据えつけた改造型はあったが、本格的な内航タンカーの建造はこれが 最初である。また、鋼製の機動力付タンカーとしては、明治41年(1908)にスタンダード石油の発注により大阪鉄工所(現日立造船)が建造したレシプロ エンジンを搭載した鋼製の『虎丸』(531総㌧、タンク容量400㌧)といわれている。『虎丸』はその後、船主が転々と代り貨物船に改造され、第二次世界 大戦末期の昭和20年(1945)にアメリカ軍航空機の空襲を受けて撃沈されたと記されている。

統制経済下の内航タンカー

第二次世界大戦下の統制

昭和10年代になって戦時色が濃くなると、重要な戦略物資である石油や、その輸送機関である内航タンカー業界は、政府による統制下に組み込まれた。
17年(1942)には、海運統制令による『全国沿岸タンク船海運組合』が組識され、東部(関東)、中部(阪神)、西部(下関・九州)および液体工業薬品 の支部が設けられた。一方、近海・内航タンカー運航のため『近海油槽船運航(株)』が設立され、地域輸送の小型タンカーも各地区の『沿岸油槽船運輸統制 (株)』に編成された。
戦火の拡大とともに、大量の戦時標準型船(戦標船)が建造されたが、これを上回る船腹が失われ、海運業界の体質は急速に衰えていった。

第二次世界大戦後の統制

昭和20年(1945)の終戦によってすべての鋼船は、GHO(連合軍総司令部)の管理下におかれ、船舶運営会がその運航実務を代行することになった。ま た、太平洋沿岸の製油所は操業を停止され、僅かに国産の石油や旧海軍などの残油が配給されていた。22年(1947)には、内航タンカーの戦時統制会社が 相次いで解散し、舶用燃料の配給を受けるために、地区別の任意業界団体などへと移行した。内航タンカー業界ではこの年、機帆船など小型船の船社が任意団体 で関東、中部、瀬戸内、西部の各地区沿岸タンク船業会を組織し、その集合体として全国沿岸タンク船業会連合会を設立している。

戦後の再建とエネルギーの転換

民営還元による自営運航

海運の民営還元はまず、昭和24年(1949)9月に800総㌧未満の船舶を、続いて翌25年(1950)4月に800総㌧以上の船舶を対象として 実施され、これに伴い船舶運営会は解散した。戦火により壊滅状態にあつた日本海運の再建は、主として僅かに残された戦標船と機帆船の運航から始められた。 太平洋沿岸の製油所も25年1月に再開されたが、石油の内需は僅かで、荷動きも乏しかった。

石炭の斜陽化

25年6月に朝鮮戦争が勃発すると、産業界は特需と輸出の急増で活況を呈した。27年(1952)には、石油の販売量が増加し、内航タンカーの輸送量も増えて船腹は不足気味となった。エネルギーの主役であった石炭は、再三の炭労ストによる供給不安に加え、価格が高騰する一方、石油は中東油田の開発で世界的な供給過剰にあったことから、 低廉かつ安定的に入手できた。これが大きな要因となって、産業界は石炭から石油へのエネルギー転換を進め、石油需要は急伸長をみせた。
そうした中で内航タンカー業界では、鋼製タンカーの船社が28年(1953)に設けた内航タンカー懇話会を発展的解消し、翌29年(1954)近海タンカー協会を設けている。

苦境に立つ内航タンカー

政府は28年1月、「石炭から石油への熱源転換の奨励」を表明したが、翌29年1月には一転して、外貨節約と石炭産業の合理化促進を理由に「石油転換促進 策を切り替え、石炭への再転換」の方針を発表した。これによって原油輸入の外貨割当制限や重油ボイラーの設置規制が実施され、既に先行投資船腹が増えてい た内航タンカー業界は、その対応に苦慮した。30年8月、近海タンカー船主会はパンフレット『苦境に立つ内航タンカー』を作成、関係先および報道機関に配 布して、過剰船腹の実情を訴えた。

全国内航タンカー海運組合の発足

輪送需要の急伸

昭和30年代に入ると我が国の経済は鉄鋼、電力、石油、造船などの基幹産業を中心に年率10%近い驚異的な成長を続けた。中でも石油は、エネルギー 革命が産業界に浸透するにつれて、消費量が急速に増大した。33年(1958)頃から、新設発電所が石油主体となった影響は大きく、需要の伸びは一段と加 速し、製油所と電力、石油化学が結合した『石油コンビナート』が各地に誕生している。
これにつれて内航タンカーの石油輸送量も、30年(1955)度から39年(1964)度の10年で約10倍に増えたが、一方では輸送需要の伸びを遥かに上回る船が建造され、内航タンカー業界は大量の過剰船腹を抱えて不況にあえいでいた。

輪送需要の急伸

船腹急増の要因は、①石油輸送需要の先行き見通しが明るいこと ②熔接技術の普及で中小木造船所が鋼船建造に転換したこと ③造船技術の進歩と鋼材の低廉化で建造船価が下り、工期も短縮されたこと ④過去において貨物船より採算的に有利であったこと、などであった。これらを背景に、機帆船や戦標船からの乗り替え、他業種からの新規参入に、投機的思惑 建造も加わって、鋼製小型タンカーの建造がブームとなった。
無秩序な船腹増加により、内航タンカーの稼働は低下し、運賃もまた低迷していた。

内航二法の制定とその背景

小型船海運組合法

政府は昭和32年(1957)10月、内航海運業界の中小企業対策として、『小型船海運組合法』を制定した。この法律により、内航海運業界は組合を 組織し、適正な運賃の維持、過当競争の防止のために船腹調整、事業資金のあっ旋などの協同事業ができることになった。これに基づき内航タンカー業界では、 全国沿岸タンク船業会連合会が改組して33年(1958)9月、全国油槽船海運組合連合会が設立された。これに先立ち全国沿岸タンク船業会連合会傘下の地 区団体は、同年5月東部(関東)、6月中部(阪神)、8月中国(瀬戸内)、西部(下関・九州)の各地区海運組合と関東酸槽船海運組合に改組している。
しかし、この法律の適用範囲は、500総㌧未満に限定されたため、過剰船腹の調整行為の効果が期待できず、調整事業を実施するには至らなかった。
一方、近海タンカー協会も34年(1959)12月、社団法人近海タンカー協会に改組している。

内航海運問題懇談会の意見書

38年(1963)3月、外航海運を対象とする海運再建二法が国会を通過し、その決議として、「内航海運対策についても速やかに抜本的措置を考究する」こ との一項目が加えられた。これを基に4月には海運、造船、金融、大手荷主などで構成する『内航海運問題懇談会』が設けられ、抜本的な内航海運対策が検討さ れた。
同懇談会は38年7月①内航海運輸送秩序の確立 ②船腹過剰傾向の是正 ③標準運賃の告示 ④内航海運の近代化 ⑤石炭産業合理化の影響対策 ⑥税制上の措置 ⑦内航港湾の整備、を骨子とした内航海運対策に関する意見書をまとめ、運輸大臣に提出した。
これを受けて運輸省は『内航海運業法』、『内航海運組合法』の制定作業に入つたが、内航海運業界も抜本的内航海運対策実現のために、全国内航海選対策本部 を結成し、精力的に活動している。この内航二法は39年(1964)2月閣議決定し、国会審議を経て7月に公布、8月に施行された。

内航5組合と日本内航海運組合総連合会の発足

内航タンカー2団体の合併

内航タンカー業界では昭和39年(1964)12月、内航海運組合法に基づき近海タンカー協会と全国油槽船海運組合連合会が合併し、『全国内航タン カー海運組合』を結成した。小型船海運組合法により設立され、各地に傘下組合を持つ全国油槽船海運組合連合会が形式的に母体となって近海タンカー協会を吸 収し、傘下の組合は関東、中部、中国、西部、東京酸槽船の各支部へと移行した。さらに40年(1965)5月には東海支部、41年10月には四国支部と関 西薬槽船支部が発足した。その後、東京酸槽船支部と関西薬槽船支部を合併して薬槽船支部とした。

内航総連合会の設立

日本内航海運組合総連合会は41年(1966)7月、内航海運組合法(昭和40年9月施行)に基づき、全国内航タンカー海運組合を始め内航5海運組合の総 合調整機関として組織された。以降、内航総連合会は内航海運業界の調整事業、共同事業を実行するなど、その調整母体として5組合の円滑な活動を推進し、今 日に至っている。